黒酢発祥の歴史

お酢はお酒から造られていた

黒酢の発祥を語る前に、まずはお酢の歴史から。

お酢はお酒から作られていた

お酢は人類がつくり出した最も古い調味料といわれ、その起源は紀元前5,000年前の古代バビロニア(現在のイラク南部)にまでさかのぼるといわれています。バビロニアは最も古くから定住農耕が行われている地域の一つで、その当時はナツメヤシ、干しブドウを原料とする酢が製造されていた記録が残っているそうです。

その後、古代エジプト、ローマ時代にはビールやワインを寝かせて酢を造る方法が確立すると、マリネやピクルス、ドレッシングの調味酢として愛用されるようになり、また食べ物の保存や飲み水の殺菌、傷の消毒にも珍重されるようになりました。

日本のお酢

日本でお酢造りが始まったのは、古墳時代の西暦400年頃といわれています。
中国から酒を造る技術とともに米酢の醸造技術も伝来、そこから日本のお酢造りは始まったといわれています。

その後、律令制の実施された4〜10世紀には造酒司(みきのつかさ)という役所が酒と酢の醸造を担うようになりました。当時のお酢は朝廷や貴族専用の贅沢品で、高級調味料としてだけでなく漢方の一種として用いられたそうです。

お酢が庶民の調味料として一般に広まったのは江戸時代になってから。庶民の食文化が発達したこの時代、醤油、味噌とともに酢も庶民の食生活に普及していきました。

黒酢の発祥

黒酢の発祥ですが、当醸造所には以下のような昔話が伝わっております。

── むかしむかし、港町としてたいへん栄えた福山。そこには「宮浦神社」 という神社があり、現在、鹿児島県の天然記念物に指定されている大きな夫婦イチョウの樹があります。 ある時、村人がその樹の根元に行き倒れている旅人を見つけ助けたところ、お礼に玄米酢の造り方を教えてもらったそうです。その旅人が中国のアモイの方でそれが訛り、それ以来、酢のことを「アマン」と呼ぶようになりました。

宮浦神社
長命ヘルシン酢醸造に伝わる昔話

一方で、近年は「福山の商人、竹之下松兵衛が鹿児島県の日置地方を旅していたときに当地で製造されていた色のついた酢のことを知り、江戸時代後期1820年頃に福山で大規模な製造を始めた」という話も、よく耳にするようになりました。

いずれにせよ黒酢の発祥は、鹿児島県福山(現在の霧島市福山町)で間違いないようです。

なぜ福山で、当時は貴重なお米を使って、大規模な黒酢の製造ができたのか?
それには薩摩藩の支援があったとの説もあります。

当時の薩摩藩は、財政難から江戸幕府には内密で密貿易を行っており、福山港から琉球・中国へ「寒天」を輸出していました。この寒天の製造には大量の良質な酢が必要なのですが、福山には酢造りの好条件が揃っていました。当時の薩摩藩の上納米の中継地でもあり、藩の支援があれば原料となる米の入手も容易にでき、また黒酢造りに欠かせない「かめ壺」にも薩摩焼が利用できます。さらにシラス台地の豊富な地下水、黒酢造りに最適な気候などの条件も味方し、福山で黒酢造りが産業として発達した、という説です。

江戸幕府に知られたら一大事の密貿易ですから、記録が残されていないため正確なことは分かりませんが、そこで資金を得た薩摩藩が、その後、幕末〜明治維新にかけて日本を変えていく存在になり、その活躍に黒酢が一役買っていたというのは、とても面白い話ですね。

なお「黒酢」という名称ですが、昔から地元では「アマン」や「福山酢」という名前で呼ばれており、黒酢と呼ばれるようになったのは1970年代頃からです。

黒酢と薩摩藩